「待つ」ということ / 著者・鷲田清一 / KADOKAWA
待つことなく待つ
今年2026年は水に関することで頭を悩ませた。日本各地を襲った線状降水帯や台風などの被害などもそれにあたるのだが、ごく個人的なことでいうと自然農のチャレンジとして例年の畑にプラスして稲作をスタートしたからだ。
稲作と水は切ってもきれない存在。ましてや不耕起栽培の自然農なことあって代掻きなどもしないので初年としてはやはり水が圃場に溜まらない。だから必須も必須な訳である。稲作に取り組んでいる場所は神川水系といわれる菅平ダムで貯水された農業用水を周辺の田畑で分け合いながら使用しているエリアにある。こうした灌漑設備を整備した、もしくは計画したのは一体いつ誰がやったことなのだろうといつも感心してしまう。けれど田植え時期になれば至る所の水田で水が必要になるため神川水系の中下流に位置する我が家の田んぼにはなかなか水が回ってこない。さっきの感心とは裏腹に、なんだこの灌漑設備はと暴言を吐きたくなるのを抑えながら、いわゆる「待ち」の状態が長く続いた。待てど暮らせど水路には湿気った形跡すらも確認ができないくらいカラカラの状態が田植え直前まで続いたのだった。
「今年の稲作は諦めて、大豆栽培に切り替えてしまおうか、、」なんて妻に何度言ったことだろうか。終いには「明日までに水が入らなかったら諦める」なんてことも口にしていた。そんな状態であっても来るはずもない水をただただ憂いていた自分に対して、水田の周辺のお爺さん、おばあさんたちは「来るものはいつか来る。」と大上段に構えて余裕な表情。そんな姿を見るにつけ、来ないものに対してこんなにも感情や時間を奪われているのがだんだんバカらしくなり、別のことに時間を費やしている間に、いつの間にかあたかも昔からここを流れていたような顔をしながら水は水路を軽快に通って水田に入っていったのだ。
本書『「待つ」ということ』を読んで、なるほどと思った。
中には待てない=せっかちな状態はどのようなことかというと、未来の可能性を視野に入れずに、一旦自分の中でこれと決めてしまった未来の枠の中で早く決着を見たいという衝動のことというようなニュアンスの文章を発見した。まさしく、水田に入らない水を待っている自分の頭の中がそんな感じだった。自然農の田んぼは水が溜まりにくいので、水が必要で田植えが終わったら深水にして雑草対策もしたいと頭の中で考えれば考えるほど、自分の頭の中でストーリーがカチっと決まっていき、それ通りにならない事態が発生した時に、いよいよ待てないという状態が到来するのだった。そして文章の中には、待つことの放棄こそが、
「待つ」の最後のかたちなのだと語られていて、目の前がパッと明るくなったようなそんな気さえしたのだった。
本書はこんな僕のような、待てなくなったせっかちなわたしたちが「待つ」を取り戻すための哲学が一冊にまとまっている。
効率と速度が極限まで高まり、酸欠状態を起こしている現代の社会。わたしたちは待つことができなくなった。「待つことは、待たれているものとのあいだの、切っても切れない、しかしけっして埋めることのできない距離を、いたみとともに、しかしあくまでもいつくしみともに、ひきうけること」。「待つ」ことを取り戻し、ふたたび自らを未知に開き、他者を信頼するために――。
待つことなく待つ。
そんな境地になりたいものだ。
<目次>
焦れ
予期
徴候
自壊
冷却
是正
省略
待機
遮断
膠着
退却
放棄
希い
閉鎖
酸欠
倦怠
空転
粥状
開け
鷲田 清一
1949年、京都生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得。大阪大学総長、京都市立芸術大学理事長・学長を歴任。大阪大学、京都市立芸術大学名誉教授。専門は臨床哲学・倫理学。著書に『モードの迷宮』(サントリー学芸賞)、『「聴く」ことの力』(桑原武夫学芸賞)、『「ぐずぐず」の理由』(読売文学賞)、『死なないでいる理由』『〈ひと〉の現象学』『所有論』など多数。

