仮面考 / 著者・今福龍太、写真・石川直樹 / 亜紀書房
いくつもの仮面
小さかった頃、信州・上田の祖父母の家に夏の1ヶ月間滞在していることが多かった。僕たち家族の寝る場所は応接間の奥にある畳の客間。父と母、そして姉の計4人で川の字に寝たのは後にも先にもこの時期だけだったと考えると、とても貴重な時間だったと思う。その客間とドアを隔てて祖父の書斎があったのだが、そこの机の上の方にかけてある般若の能面が怖過ぎてそれがいつか襲ってくるのではと夢想してしまうことが多かった。当時はまだ夏でも冷えていた上田の夜風がそれに拍車をかけたのは言うまでもない。これが僕と仮面との出会いだった。
表向きの仮面との出会いはそんな感じなのだが、高校生になった頃、今振り返ってもよく分からない精神状態、もしくは思考に陥っていたのだが、言い方を変えれば内面の仮面について自己問答していたとでも言えようか。部活のサッカーを終えて大体が帰る方面が一緒の仲間と連なって集団で帰るのが常だったが、どういうわけか、その時の自分は同じ方面の仲間と同じと見られたくない、一人の個人でいたいという思春期真っ只中の仮の面を装っていたように思う。練習の時や普段の学校生活では不仲とかではないのだけれど、どうしても帰り道というある種の学校という閉じた世界ではなく、開かれた社会という世界で自分がどう見られたいのかということに変な意識が向いてしまったのだろうか。
そんな思春期特有の仮面を経て、今では、個人経営店の店主、フリーの編集者、自然農の百姓といったいくつもの仮面を使いこなして社会と接続しているのは、過去の仮面の経験を経て故のことなのだろう。
ここまで見ても仮面というものは不思議なもので、物質的に見える仮面もあれば自己に内在化している仮面という概念もある。物質的なものとしての仮面でも、きっとそれの本来の使いみちとしては、内在化しているものを呼び起こすための一種の装置としての役割が大きいのではないだろうか。本書『仮面考』はまさしくうそうした仮面について考えをめぐらせていく内容となっている。著者は文化人類学者で批評家の今福龍太さん。民族的なことから自己というペルソナとしての仮面について幅広く論述されており、気がついたらページを捲る手が止まらなくなってしまうことだろう。
あなたにも仮面があるのではないだろうか。
SNSなどが顕著だが現代人はいくつもの仮面が表側の表現としても現れてきているはずなのだから。
本書を導き手にそんなことを考えてみたらどうだろうか。
<目次>
仮面のはじまり
Ⅰ 顔、面、ペルソナ ──和辻哲郎に導かれて
Ⅱ 〈うしろ向きに未来に入る〉こと──戸井田道三と能面
Ⅲ 諷刺と蜚語の王国 ──金芝河における仮面の叛乱
Ⅳ 他者性の乱舞 ──メキシコと仮面
Ⅴ ヴァンクーヴァー島への小さな旅 ──レヴィ゠ストロース『仮面の道』を傍らに
Ⅵ 恐怖と仮面 ──ポーからボルヘスへ
Ⅶ 苦く甘美な喧噪 ──ジェームズ・アンソールと仮面の祝祭
Ⅷ 哲学者の夢の涯てに ──プルチネッラと永遠の生
Ⅸ 隠喩としての仮面 ──ファノン、セゼール、ボールドウィン
Ⅹ 仮面の解剖学 ──安部公房における〈顔の喪失〉
Ⅺ ポスト・フェストゥムの仮面 ──セリエント、吉岡実、ベンヤミン
Ⅻ 死者の召喚 ──三つの仮面劇をめぐって
ⅩⅢ もう一つのペルソナ ──〈仮面の政治学〉の彼方へ
仮面の終わり
今福龍太
1955年東京生まれ。文化人類学者・批評家。東京外国語大学名誉教授。メキシコ、カリブ海、アメリカ南西部、ブラジル、奄美・沖縄群島などで広範なフィールドワークを行う。国内外の大学で教鞭をとり、サンパウロ大学客員教授、サンパウロ・カトリック大学客員教授、台湾・淡江大学客座教授などを歴任。2002年より奄美・沖縄・台湾を結ぶ遊動型の野外学舎〈奄美自由大学〉を主宰し、唄者・吟遊詩人としても活動。主な著書に『ここではない場所』『ミニマ・グラシア』『薄墨色の文法』『ジェロニモたちの方舟』(以上、岩波書店)、『レヴィ=ストロース 夜と音楽』『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』(読売文学賞受賞)『霧のコミューン』(以上、みすず書房)、『宮沢賢治 デクノボーの叡知』(新潮選書、宮沢賢治賞/角川財団学芸賞受賞)、『原写真論』(赤々舎)、『ぼくの昆虫学の先生たちへ』(筑摩選書)、『言葉以前の哲学 戸井田道三論』(新泉社)など多数。主著『クレオール主義』『群島-世界論』を含む著作集『今福龍太コレクション《パルティータ》』(全五巻、水声社)が2018年に完結。




