わからないままの民藝 / 著者・朝倉 圭一 / 作品社
日常の道具
よくブランドのノベルティーの文房具などのちょっとしたものを何かの折でもらうことが多いかと思う。いつの頃からか、そうしたものは自分の身の回りには置かなくなった。確か中学校くらいだっただろうか。自分はそうした企業やブランドの広告塔でもあるまいし、第一使う時に自分自身がその企業やブランドの名称を目にするということがなんだかすごく居心地が悪かったのだ。
そうした趣味嗜好を若い時から持っていたことも相まったのか、ものを選ぶ基準としてデザイン性や作家性が出過ぎていないということが、自分の中では重要になった気がする。アノニマスで匿名性の高いものをただただ探しているのかというとそれも違う。例えブランドのものであったとしても作為が全面に押し出されていない、行為者の行為や所作に基づいたものであれば大歓迎ということなのだ。道具は象徴としてのものではなく、あくまで日常の使うものとしての役割を持ったものであって欲しいと切に思うのだった。
さて、本書『わからないままの民藝』は飛騨高山の工藝店「やわい屋」の店主・朝倉圭一さんが“新時代の民藝”の姿を生き生きと綴った、これまでにない、新しい民藝エッセイだ。平常や日常、そして平凡などかつて民藝という概念を生み出した柳宗悦の言葉を再考しながら民藝とは何かということを考える切り口を与えてくれている。
日常というものは尊いものであるが故、失われたら二度と戻ることはない。だから変に息巻いて着飾って自らを表に出すことはせずに坦々と生きていく。だからといって変化をしないことを善しとするのではない。時代や社会の中から生まれていくものなのだ。ただ決してそれは需要云々というものを捉えろということではなく、時代や社会の流れが生み出していくものだと思う。そうした変化を続けることがいつしかそれが土台となり育まれていく。育むということは信じて待つということだ。成長を信じ託すこと、つまりそれは日常を積み重ねていくことなのだ。
民藝とは、そして日常を積み重ねることとは。
そんなことを考えるきっかけに本書はなると思う。
「わからないまま」は、「わかる」や、「わかった」よりもずっと信頼できる。
なんとなく、且つ、強く、そう感じている僕ですが、この本を読んでそれに自信が持てました。
生活者の体感と、博識な言語世界を縦横無尽に旅して、独特な感性で見つめるような朝倉さんの思索や活動は、それ自体が民藝のよう。さすが、民藝運動の父・柳宗悦が「旅の心を誘うところ」と言った飛騨国に生まれ育った人です。
――星野概念(精神科医など)
<目次>
第1章 民藝の百年を遡る(民藝はわかりにくい;民藝は誰のものだったのか ほか)
第2章 飛騨高山と観光と民藝運動(まちづくりと民藝運動;柳宗悦と飛騨―「飛騨国は旅の心を誘うところであります」 ほか)
第3章 工藝店「やわい屋」の物語(やわい屋前夜;民藝との馴れ初め ほか)
第4章 現代に息づく民藝(見えないものへの眼差し;「ものづくり」に見る未来の姿 ほか)
朝倉圭一
1984年岐阜県高山市生まれ。民藝の器と私設図書館「やわい屋」店主。愛知県立芸術大学非常勤講師、飛騨民芸協会理事、雑誌『民藝』編集委員。移築した築150年の古民家に家族で暮らしながら、器を売って本を読んで暮らしている。松本紹圭『日常からはじまるサステナビリティ』(淡交社、2024年)に対談者の一人として参加している。Podcast「ちぐはぐ学入門」を不定期で配信中。


