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庭の話

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庭の話 / 著者・宇野常寛 / 講談社




共空間としての庭




信州・上田に移住した時に感じた変化の一つに、生活している中で他者との接点が少なくなったということだった。公共私の3つに場所を区分けするとした場合、公の場所と私的な場所つまり家との中間の場を共にしている空間というものが明らかに見えない状態になっている。一番の大きい理由としては、移動手段だろう。都内に比べて電車などの公共交通機関を利用することがなくなってしまったことがその一理になるだろうが、誇張なしに年に1回乗車するかどうかという頻度なのだ。そうした分、疲れたサラリーマンなどを互いに見ることは皆無になり、他者からの疲れの伝播のような状況は生まれにくくはなっている。けれど、一つの場所を他者と共有するという経験がなくなっているのはなんだか不自然な気もする。

子どもの遊ぶ場所ひとつとってもそうだ。先日都内にある実家に子どもを連れて里帰り(この場合は“都帰り”か)した時には家の真裏にちょっとした公園があったりしてちょっとした時間でも遊べるし、自分の子どもの時は近所の公園に自転車で乗って集まり、学区の異なる同世代の子達と始めは縄張争いになりかけるものの、次第に交わってきたりして仲良く遊んだりもした。近所に気軽なそうした公園のないそうした状況は今の住む上田ではなかなか起こりにくいのではないのではなかろうか。

インターネットやソーシャルメディアが活発に使われている現代。私たちはどうのようにしてこうした共空間を育んでいけるのだろうか。



そんな問いかけに対して手を差し伸べてくれるかのような一冊が本書『庭の話』だ。

本書の著者で批評家の宇野常寛さんがプラットフォーム資本主義と人間との関係はどうあるべきなのか、という課題に対して独自の分析と視点で論じた一冊だ。

ケア、民藝、パターン・ランゲージ、中動態、そして「作庭」。一見無関係なさまざまな分野の知見を総動員してプラットフォームでも、コモンズでもない「庭」と呼ばれるあらたな公共空間のモデルを構想する。著書『遅いインターネット』から4年、疫病と戦争を経たこの時代にもっとも切実に求められている、情報技術が失わせたものを回復するための智慧がここにまとまる。


「家」族から国「家」まで、ここしばらく、人類は「家」のことばかりを考えすぎてきたのではないか。しかし人間は「家」だけで暮らしていくのではない。「家庭」という言葉が示すように、そこには「庭」があるのだ。家という関係の絶対性の外部がその暮らしの場に設けられていることが、人間には必要なのではないか。(中略)/「家」の内部で承認の交換を反復するだけでは見えないもの、触れられないものが「庭」という事物と事物の自律的なコミュニケーションが生態系をなす場には渦巻いている。事物そのものへの、問題そのものへのコミュニケーションを取り戻すために、いま、私たちは「庭」を再構築しなければいけないのだ。プラットフォームを「庭」に変えていくことが必要なのだ。(本文より)


<目次>

#1 プラットフォームから「庭」へ

#2 「動いている庭」と多自然ガーデニング

#3 「庭」の条件

#4 「ムジナの庭」と事物のコレクティフ

#5 ケアから民藝へ、民藝からパターン・ランゲージへ

#6 「浪費」から「制作」へ

#7 すでに回復されている「中動態の世界」

#8 「家」から「庭」へ

#9 孤独について

#10 コモンズから(プラットフォームではなく)「庭」へ

#11 戦争と一人の女、疫病と一人の男

#12 弱い自立

#13 消費から制作へ

#14 「庭の条件」から「人間の条件」へ




宇野常寛

批評家。1978年生まれ。批評誌〈PLANETS〉編集長。 著書に『リトル・ピープルの時代』『遅いインターネット』(ともに幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)、『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)など。 立教大学社会学部兼任講師も務める。

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