食堂巡礼 / 著者・小川糸 / 白泉社
味の奥の響き
東京を離れて5年以上経つのだが、その地を離れる時にきっとまたこの店のあの味が恋しくなり、結局通うことになるのかなと思いながら、食べ納めみたいな気持ちで当時通っていたご飯屋さんを色々と巡った。
信州に移ってから気づけば月日が流れていたのだが、この時思っていた気持ち通りにはならなかった。その後も幾度も仕事の都合などで上京はしているものの、毎回お昼はどこに行こうかと悩んでしまう。それは、あそこのあの味、いやあの店のこれ!といった感じで選択肢に溢れて悩んでいるという訳でない。むしろその逆で、どこも行き場がないなと感じてしまう。そして結局足が向かう先は一つしかないのだ。
そこは一人暮らしをしている時に道路を挟んで反対側に位置していた洋食屋さん。近くに父の会社があり、父が同僚を連れてよく通っていた店で何かの都合でその店を教えてもらってから自分も足繁く通うことになった。海外を飛び回っていた20代後半。帰国をすれば恋しくなる、彼の地では決して味わえない日本の洋食といった感じだ。
店内は狭く、壁は時間の蓄積ともいえる油汚れで黄ばんでいたりするけれど、かといって汚らしい訳ではなく、どこまでも整理整頓が行き届き、丁寧に日々が折り重なっていることが伺える。定位置はカウンター。そこからは大将とその息子(息子といってももう社会人になっている息子さんがいるほどの年齢)が忙しなくフライパンを握り料理を作っている。その手捌きは職人そのもの。玉ねぎの下処理などは見事なものでそれを真似ようと食事の後、玉ねぎを買って自宅で見よう見まねでやってみるも、なかなか上手くいかないということを肌身で感じたこともある。分量などを測るなんてことは一切せず、全てが流れとリズム、そして二人の阿吽の呼吸の中で作られている。
他界してしまった父にいつのことだっただろうか、この店に通って大将に顔を覚えてもらうと通常ケチャップが乗ったオムライスにさらに秘伝のデミグラスソースもかけてもらえることを教えてもらった。自分にもいつかその時が来るかと思いつつ、結局通っていた頃は毎回違うメニューを頼んでしまっていた。移住後にはその機会はなかなか来ない状況になって久しい時、上京の折、またこの店を尋ね、オムライスを注文してみた。すると「最近見なかったね。どうした?」とケチャップとデミグラスソースの掛かったオムライスが手元に出されたのだった。
さて、前置きが長くなってしまったのだが、本書『食堂巡礼』を読んで、まさしくこの洋食屋さんは僕にとっての巡礼なのだと思ってしまったのだった。
人気作家、小川糸の最新エッセイ集の本書。
小川さんがつくる人の人生を感じる、とっておきの料理と人に会うために日本全国を巡礼する。出身の山形では3代続く山の茶屋や想い出のパティスリーを、南の沖縄では深い森で滋味あふれる料理を、能登では復興と共に地元の食材や文化を守る人々に再会。訪れたのは8県20か所。
料理に携わる尊い生き方をする人々に出会い、彼らの料理を食べ、心から豊かになっていく様子を静謐な文章で描かれているのは、料理の奥にあるその人たち自身が織りなす響きなのかもしれない。
<目次>
沖縄県・南城市「胃袋」
神奈川県・鎌倉「おおはま」
山形県・羽黒山「二の坂茶屋」
山形県・寒河江市「佐平治食堂」
長野県・小谷村「喫茶 白月」
食堂巡礼の旅:1 佐渡ワインと「ラ・バルク・ドゥ・ディオニゾス」を訪ねて
新潟県・佐渡島「佐渡バターと”りきすしさわた”」
長野県・黒姫「温石」
長野県・富士見町「やまゆり」
長野県・小谷村「蕎麦屋 蛍」
食堂巡礼の旅:2 郷土料理と古津軽のシードルの旅
長野県・富士見「オンリ onri」
山形県・山形市「パティスリーコウシロウ」
山梨県・北杜市「グート・デ・スリーズ」
山梨県・北杜市「カフェ・ド・ペイザン・八ヶ岳」
新潟県・栃尾又温泉「宝巖堂」
食堂巡礼の旅:3 能登の食の作り手を訪ねて
小川糸
1973年生まれ。
デビュー作 『食堂かたつむり』(2008年)以来30冊以上の本を出版。
作品は英語、韓国語、中国語、ベトナム語、フランス語、スペイン語、イタリア語など様々な言語に翻訳され、様々な国で出版されている。
『食堂かたつむり』は、2011年にイタリアのバンカレッラ賞、2013年にフランスのウジェニー・ブラジエ賞を受賞した。
またこの作品は、2010年に映画化され、2012年には『つるかめ助産院』が、2017年には『ツバキ文具店』、2020年には『ライオンのおやつ』がNHKでテレビドラマ化された。
『ツバキ文具店』『キラキラ共和国』そして『ライオンのおやつ』は、日本全国の書店員が主催する「本屋大賞」候補となった。
最新作は、『小鳥とリムジン』(ポプラ社)。


