ことばの記憶: vol.4 大切な自然

 自然との初めての出会いというものはきっと近所の公園の草花やそこに植っている木々に触れた時だろうか。物心ついた頃の3歳くらいであれば、信州・上田の祖父母の家の前の田んぼの畦道の草花や虫たちのように思う。けれどその時ですら、自然と自分が渾然一体な状況で、自分自身が人間であり、草花は植物であり、昆虫でありと生き物の区別がつくようになったのはもう少し先になってからだった。

 

 自分と自然が異なる生き物ということ、つまりは自然の脅威というかいのちのパワーを身体感覚を通して全身で感じられたのは、幼稚園の年長の時に習っていた体操教室の課外活動で2泊3日のキャンプに送り込まれた時だ。今でこそ旅が好きで自分の見知らぬ土地に行くことにあまり抵抗がない方だと思っているけれど、それは手放しで本当に抵抗がないかと言えばそうではない。こころのずっと奥の方では何かの引っ掛かりのように見知らぬ場所への抵抗が必ずあり、旅に行く直前の期待感と同じくらい“ダルい”という安易な言葉で表現したくなるような感覚が疼き、期待感とそれがシーソーゲームをしている。この疼きと初めに出会ったのが先のキャンプでの経験だったのだ。

 

 子どもは誰とでも仲良くなっちゃいますよね、なんていうのは大人のそうあって欲しいというエゴだということは自分が子どもの頃から感じていた。もちろんそういった誰とでも分け隔てなく仲良くできる子はいるけれど、その反面そうじゃない子だっている。自分はまさしくそのそうじゃない子の一人だった。だから、同じ歳の子どもたちであっても普段から関係性がある友人ではなく全く見ず知らずの集団の中に放り込まれるという不完全な関係性への不安感や孤独感が、今も見知らぬ何かに対して本当に怠い訳ではないのに“ダルい”という奥底の疼きの反応の原点とも言えるだろう。

 

 そんなこころの疼きを抱えたまま、キャンプ場の近くにあった川に入ろうということになった。幼稚園でも膝上くらいの深さのプールに入っていたし、なんてことないと思っていたけれど、いざ川に入ってみると深さが膝下であっても水に流れが加わることで重さや冷たさなど、そこに視覚できない大きな存在がそこにあるのだということを初めて実感したのだった。能動的に活動している虫たちなどいのちとは別の存在がそこにはあったのだ。そしてそれと対峙した時には自分の力では為す術もないといった状態がこの世に存在し、どう足掻いても人間にはコントロールしようもない自然の脅威があり、それこそが真理であるということを初めて理解した経験になった。

 

 探検家の星野道夫は、大切な自然が二つあるという言葉を残した。一つは自分の生活の中の身近な草花などの自然。そしてもう一つが日々の暮らしとは関わらない遥か遠くの悠久の自然とのこと。そこにあると思えるだけで豊かになるそんな自然だ。

 

 先のキャンプ場や川は探せばきっとどこかにあるし、たどり着くことはできるだろう。けれどあの時の状況や幼心の感受性はどう探しても見つけることはできない。まさしく僕のキャンプでの経験は後者の悠久の大切な自然だったのだ。

x