本屋を営んでいるからといって漢字に強いわけではない。最近はパソコンを使った文字のタイピングが必然的に多くなってしまっているので、スペースキーを押せば自分が打ち込んだ文字が半自動的に漢字に変換されるから日常的に漢字を使っているという気さえ起こらない。いやはや、便利というものは人間の思慮の退化を確実に進めていくのだろう。タイトルの経糸(たていと)、恥ずかしながらこれを読むことができたのは30歳をとうに過ぎた頃だったように思う。ファッション業界や縫製などを生業にしている方ならまだしも、自分が属している業界や分野的になかなか日常的に使う言葉でも無かったからなどと苦しい言い訳をしてみるが、こうして文字にすると、よりその苦しさが一層増して感じるものだ。
近年、特に2010年代後半から世間ではコミュニティという言葉が市民権を得た。斯くいう僕自身もこうしたコミュニティ形成の一旦を担ったり、自らが主導してコミュニティ型の仕事をやっていたこともあった。こうしたことが浸透していく中で自分と同じような世界観や価値観を大切にしたり、それらを共有することで自分を日々取り巻いている“世界”が広がっていくのを実感し、SNSの普及も相まって国境すらも安易と越えられるその高揚感といったら何ものにも変えがたく、まさに未知なる冒険をしているようでとてもワクワクしたことが思い起こされる。
そうしたことも齢四十、不惑が年々と近づくにつれて、自分がコミュニティに属すということに対して、からきし興味がなくなった。そこに集まった人々の中での自分がどう見られるかというベクトルから解放され、自らの存在の意味や意義を自分自身で考えていく、この年になると次世代に続く子どもという存在に触れたりすることでそうした機運が高まり、より一層考えたくなるからなのかもしれない。
私とは一体なんなのだろうか。この究極の問いに唯一の手掛かりとして光を差してくれるのは、経糸を手繰るということなのだろう。つまりは自分の先祖がどういう時代背景の中でどのようなことを成していたのか。それを見つけ出し今の自分と照らし合わせることで、揺るぎない血や精神が脈々と自分へと受け継がれているのが分かってくる。それが果たして善いことなのかそれともそうではないか、解釈は人それぞれあるのかと思うが、その事実が自らの存在の意味や意義を確かなものに変えてくれるのは間違いないはずだ。3世代同居という方が珍しいくらい核家族化が進んでしまった今では、2つ上の世代からそういった話を日常生活の中で聞くことも減ってきている。個人の存在ということにフォーカスを当てると親族を辿っていくことになるのだが、何かの流れが続いているということは家族に限った話だけの事象ではなく、社会としてまたは土地の精神や哲学がどのように続いていっているのかということを辿っていくことなのだろうと思う。語り継ぐべきは経糸の話なのだ。