自由の牢獄 / 著者・ミヒャエル・エンデ、翻訳・田村都志夫 / 岩波書店
未知なる世界への冒険
ファンタジーと聞くと、何やら頭の中をお花畑にしているような現世とは格別された不思議な世界と思いがちだけれど、日常から少し外れた非日常の世界こそ、ある種のファンタジーなのでは無いだろうかという気がしてくる。特に海外を旅していると、はるか昔よりも格段に早く目的の国に到着することができるので、現地時間との時差も相まって今を生きているはずなのに、どこか今では無いどこかの光景を映像で見せられているような感覚に陥る。
その場所が自分の普段の世界とは異なる風習や文化を持ち合わせているならなおのこと、旅で何を経験するかに問わず、旅に出ること自体が、今まで知らなかったことと出会う機会となり、それに触れ、その中を通り行くことで、自分の中の視点が変わり、まわりの世界、つまり自分の観ている世界が変わる。こうしたことは本書『自由の牢獄』の解説でも触れられているように、しばしば旅の中で起こるだろう。そしてそうしたことは物理的な移動を伴う旅に限らず、思考をめぐらせる旅という名の読書の中でも見出すことができるはずだ。
『モモ』をはじめとする多くの文学を描いてきたミヒャエル・エンデの作品はまさしくそうした思考をめぐらせる旅へと続く門となっていることだろう。科学的なことが真実とされ過ぎてしまう現代だからこそ、こうした文学、そしてある種のファンタジーに触れることにより、新たな視点を得られるはずだ。
この一冊には長い熟成期間を経てまとめあげられたエンデ晩年の傑作短篇小説集がまとめられている。精神世界の深みにおもりをおろし、そこに広がる様々な現実を色とりどりの花束に編み上げた、エンデ文学の到達点を示す力作の数々。ドイツ・ロマン派的伝統を背景に、手紙・手記・パロディ・伝記など多彩な手法を駆使したファンタジーの世界が繰り広げられる。その形式や表現方法は様々だが、共通しているのは、人間にとっての精神世界の重要性を強調しているという点ではないか。
この門を通って経験してきたことが、あなたを少しだけ自由にしてくれたら嬉しいことはない。
精神世界とは、エンデにとり、言葉の故郷であり、意味や意義、さらに質の故郷であった。そのような故郷を失った者には、心にふれるものがなにもない、虚無の闇が残されるだけであることを「遠い旅路の目的地」は淡々とした筆致で描いている。言葉の消滅、意味の消滅は、言うまでもなく『はてしない物語』の隠れた中心テーマである。
しかし、どの人間にも故郷はある。そこから離れる距離が大きくなればなるほど、郷愁は高まっていく。郷愁は故郷の在り処を告げているのだ。そして、そのような故郷は物語や絵の世界とつながり、同時にそのままこの現世ともつながっている、とエンデは言いたいのだろう。
「道しるべの伝説」も精神世界から流離した者の話である。主人公(ヒエロニムス)は精神世界の痕跡をこの世に「奇跡」として探そうとする。その努力が徒労に終わったとき、ヒエロニムスも虚無の闇に落ちるのだった。そして、シリル(*「遠い旅路の目的地」の主人公)と同じく、ヒエロニムスも「故郷」である精神世界にかぎりない郷愁をいだいている。
そのヒエロニムスが人生最期に到達したイメージとは「道しるべ」だった。現世における人の存在とは、かなたにある精神世界への道しるべだというのだ。そのために人は流離して「異郷の地」にある、という静かな認識はエンデ自身のものだったのだろう。
精神世界、心の世界からわれわれ現代人がますます遠ざかっている事実に、エンデは強い危機感を抱いていた。それは心がふれる意義や質というものが消えてゆくことを意味する。そして、人と人とのつながり、人と自然とのつながりが途絶えること、感動や共感、そして慈悲の心がうすらぐことも、エンデの目には同じ事情による現象であった。 (「現代文庫版訳者あとがき」より)
<目次>
遠い旅路の目的地
ボロメオ・コルミの通廊――ホルヘ・ルイス・ボルヘスへのオマージュ
郊外の家――読者の手紙
ちょっと小さいのはたしかですが
ミスライムのカタコンベ
夢世界の旅人マックス・ムトの手記
自由の牢獄――千十一夜の物語
道しるべの伝説
現代文庫版訳者あとがき
解説 旅のノート 田村都志夫
ミヒャエル・エンデ
南ドイツ・バイエルン州ガルミッシュ生まれ。小説家。43年頃から創作活動を始め、俳優学校卒業後、本格的作家活動に入る。著書は各国で訳出され、幅広い年齢層に支持されている。主な作品に『モモ』『はてしない物語』『ジム・ボタンの機関車大旅行』『鏡のなかの鏡』など。『エンデ全集』全19巻(岩波書店)がある。