歩くという哲学 / 著者・フレデリック・グロ、翻訳・谷口亜沙子 / 山と渓谷社
歩くこととは
田舎暮らしのおかげ、それ故の車移動のせいで、最近はめっきりと歩くことが少なくなってしまった。日常生活の中で唯一歩く時間といえば、農作業をしている時だろうか。単一的な作物だけを育てている訳ではなく、様々な個性や性質を持った作物を育てていることもその理由になっているのだが、一つの作業をやっている時に、ふと違う作業のことが頭に浮かびそちらに勤しんだ後また一つ前の作業に戻ることが多い。気が散っているといえばそれまでなのだが、どちらかというと自分の意思とは別のところからの合図を自分自身がキャッチして勝手に動いている感覚に近いのではないだろうか。そうしたことは圃場の中を観察しながら歩いている時によく起こるので、歩くということは単に移動するという一つの“手段”としての行動に留まらない何かがそこにあるようにしか思えないのである。この場合は足を通して大地の何かと接続され何かをキャッチしているということなのだろう。
さて、そんなことを思い出したきっかけが本書『歩くという哲学』に目を通すこととなったからだ。著者のフレデリック・グロが、哲学的な瞑想の連続を読者とともに探索しながら、ギリシア哲学、ドイツ哲学と詩、フランス文学と詩、英文学、現代アメリカ文学等の、著名な文学者、思想家の歩き方について探求した一冊。
ソクラテス、プラトン、ニーチェ、ランボー、ボードレール、ルソー、ソロー、カント、ヘルダーリン、キルケゴール、ワーズワース、プルースト、ネルヴァル、ケルアック、マッカーシーらにとって、歩くことはスポーツではなく、趣味や娯楽でもなく、芸術であり、精神の鍛練、禁欲的な修行だった。また、ガンジー、キング牧師をはじめ、世界を動かした思想家たちも歩くことがその知恵の源泉だった。
世界中に影響を与え、世界を動かした思想家、哲学者、作家、詩人の思索の多くは、歩くことによって生まれてきた。
歩くことは、最もクリエイテブな行為。また素晴らしいアイデアを出す歩き方にも様々なものがある。
歩くことは、単なる機械的な繰り返しの動作以上のものであり、自由の体験であり、緩慢さの練習であり、孤独と空想を味わい、宇宙空間に体を投じることでもある。
さあ、歩くことから生まれた哲学、文学、詩の数々に触れてみよう。
<目次>
歩くことは、スポーツではない
外
遅さ
やむにやまれぬ逃走の欲求(ランボー)
自由
孤独
孤独な歩行者の白昼夢(ルソー)
根本的なもの
重力
エネルギー
憂愁に満ちた彷徨(ネルヴァル)
歩行狂人
サイレンス沈黙/静寂
永遠
道に撫でられる
なぜわたしはこんなによい歩行者なのか(ニーチェ)
充足の諸状態
感謝の念
野生の征服(ソロー)
反復
世界の終わり
宗教的精神と政治(ガンディー)
共に歩く――祝祭のポリティック
アブラハムの歩み(キェルケゴール)
巡礼の道
自己の新生、世界の新生
犬キュニコス儒派の歩き方
散歩
庭園
日々の散歩
都市の遊フラヌール歩者
神々が身を引いても、なお歩む(ヘルダーリン)
疲労を求めて
フレデリック・グロ
1965年生まれ。パリ政治学院政治思想学教授。パリ高等師範学校(ENS)に学び、1999年にフーコーについての研究によりパリ第12大学博士号を取得