時のしずく / 著者・中井久夫 / みすず書房
見る・察る・診る
子どもと日々を過ごしていると、特に3歳くらいの自我がしっかりとあるものの、その表現はまだ稚拙な時はよく見ることが大事なように思う。何かを主張してきたとしても、その言葉の字面だけを追っていては、主張をしている本人すらその意味することを理解している訳ではないので、うまいことその奥にある何かを読み取る必要がある。真意は何かというやつだ。
それ自体も訓練のようなことに思えてしまうけれど、こうした何かを察る術はやはり自然相手の畑をやり続けることに尽きるのではないかと最近感じるのだ。野菜たちをはじめ植物たちは、子どものようにも私たちに言葉を投げかけてくれない、ただそこにじっとし、そこに存在する姿として何かを言い表してくれているのだ。その状況から何を解釈しどう行動するかはまさしく自分たちに託されているのだ。そういう意味でも察ることをして最終的に診て判断して何かを施しているのかもしれない。
さて、どうしてこんなことを言っているのかというと、精神科医の中井久夫さんが書いた『時のしずく』というエッセイを読んだからだ。
本書は彼のこれまであまり語られたことのなかった自伝的な事柄と自らの家系に連なる異能の人々についての省察。震災の傷跡からの奇跡的な復興とその問題点。癒し・ボランティア・家族について広大な地平から見通した諸論考。青春時代に心ときめかした読書体験の詳細と日本語についての透徹した考察。そして、その晩年お互い精神的に深く交歓した須賀敦子や若くして夭折した安克昌をはじめとするかけがえのない師・友人・弟子たちとの交遊などが、エッセイとしてこと細やかにまとめられている。
よくもまあ、背景の描写なども含めてこんなにも詳細にまとめておられるものだと思うけれど、それもそのはず精神科医として長らく勤められていたこともあるので、何かを診ることに対してのプロというわけなのだ。
「私の人生は、さまざまな形で私を大きく動かした人々との対人関係の集大成である」。そう記す著者が、あざやかによみがえってくる自らの「記憶」を縦糸に、思い出深い人々との出会いと別れを綴った最新エッセイ集――「これは私の第4エッセイ集ということになる。おおむねは1995年の阪神・淡路大震災以降2002年初めまでのものである。ほぼ60歳代の前3分の2に当たる時期である。あまり世に出回らない雑誌などに載ったものがおのずと集まった。小さい仕事のほうに凝るのは私の癖である」(「あとがき」より)。
戦前・戦中・戦後を通して生きてきた方が何を考え、社会に疑問を持ち、同時代に生きていた方たちと育んできたのかということがまとめられた貴重な文章。
<目次>
I
私の歩んだ道
岐阜病院の思い出
ある回顧
私が私になる以前のこと
一精神科医の回顧
II
その後にきたもの——ボンの変化を手はじめに
災害被害者が差別されるとき
III
山と平野のはざま——力動精神医学の開拓者たちが生まれたころ
「祈り」を込めない処方は効かない(?)——アンケートへの答え
ボランティアとは何か
親密性と安全性と家計の共有性と
母子の時間、父子の時間
IV
手書きの習慣を保ちたい
校正について
外国語と私
日本語の対話性
被占領期に洋書を取り寄せたこと
編集から始めた私
エランベルジェと『いろいろずきん』
『分裂病と人類』について
「超システム」の生成と瓦解——多田富雄著『免疫の意味論』
書評『神谷美恵子』江尻美穂子著
ある家裁調査官と一精神科医——藤川洋子『「非行」は語る——家裁調査官の事例ファイル』
私の人生の中の本
秘密結社員みたいに、こっそり
図書館に馴染まざるの記
V
須賀敦子さんの思い出
阪神間の文化と須賀敦子
多田満智子訳『サン=ジョン・ペルス詩集』との出会い
飯田眞先生への祝辞
宮本忠雄先生追悼
『多重人格者の心の内側の世界』序文
安克昌先生を悼む
あとがき
中井久夫
1934年奈良県生まれ。京都大学医学部卒業。神戸大学名誉教授。精神科医。2022年8月没。著書『中井久夫著作集――精神医学の経験』全6巻・別巻2(岩崎学術出版社1984-91)『分裂病と人類』(東京大学出版会1982、2013)『精神科治療の覚書』(日本評論社1982、2014)『治療文化論』(岩波書店1990)『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院2007)『私の日本語雑記』(岩波書店2010)『日本の医者』(日本評論社2010)ほか。みすず書房からは『記憶の肖像』(1992)『家族の深淵』(1995)『アリアドネからの糸』(1997)『最終講義――分裂病私見』(1998)『西欧精神医学背景史』(1999、2015)『清陰星雨』(2002)『徴候・記憶・外傷』(2004)『時のしずく』(2005)『関与と観察』(2005)『樹をみつめて』(2006)『日時計の影』(2008)『臨床瑣談』(2008)『臨床瑣談・続』(2009)『災害がほんとうに襲った時』(2011)『復興の道なかばで』(2011)『サリヴァン、アメリカの精神科医』(2012)『「昭和」を送る』(2013)『統合失調症の有為転変』(2013)の著書のほか、共編著『1995年1月・神戸』(1995)『昨日のごとく』(1996)があり、訳書として、サリヴァン『現代精神医学の概念』『精神医学の臨床研究』『精神医学的面接』『精神医学は対人関係論である』『分裂病は人間的過程である』『サリヴァンの精神科セミナー』、ハーマン『心的外傷と回復』、バリント『一次愛と精神分析技法』(共訳)、ヤング『PTSDの医療人類学』(共訳)、『エランベルジェ著作集』(全3巻)、パトナム『解離』、カーディナー『戦争ストレスと神経症』(共訳)、クッファー他編『DSM-V研究行動計画』(共訳)、さらに『現代ギリシャ詩選』『カヴァフィス全詩集』『括弧 リッツォス詩集』、リデル『カヴァフィス 詩と生涯』(共訳)、ヴァレリー『若きパルク/魅惑』『コロナ/コロニラ』など。『中井久夫集』全11巻(2017-19)も刊行されている。

