誕生日のアップルパイ / 著者・庄野千寿子 / 夏葉社
文字から立ち現れるもの
共働きの家庭で育ったこともあり、小学生の時はともかく中学生や高校生なってくると学校から帰ってきても家に誰もいない、それに思春期独特の遅寝遅起だったので家族生活時間が違っているなんてことはしょっちゅうあった。それがとても寂しかったということではなく、悠々自適に一人時間を謳歌していたのだった。
こうした帰ってきた時や起き抜けで誰もいない時に母が一筆箋くらいの大きさのチラシの裏紙に言付け程度に毎度手紙を書いてくれていた。内容は本当に大したことはない。冷蔵庫におやつのプリンが入っているから食べてとか、テレビばっかり見ていないでしっかり勉強しなさいなどそういった類だった。今だったら、いやその当時だって携帯電話というものがあるので、それでテキストを送って事を済ましてしまうことだろうけれど、なぜだか母は携帯電話を僕が高校生くらいになるまで持とうとしなかったのだった。だからいつもこうした手紙でコミュニケーションをとっていた。
字面はその人の人となりを表すとは言い得て妙、母の字は几帳面で細かいところを気にする性格そのものだったように思う。今でもたまにやり取りする荷物の中に手紙が同封されている。その文字を見ると、ああやっぱり母だなと感じるのだった。
さて本書『誕生日のアップルパイ』もそんな母親が書いた手紙をまとめた書簡集。その母親というのは小説家・庄野潤三の妻である庄野千寿子。彼女が娘・夏子に宛てた手紙になる。その手紙の一遍はとてもプライベートなもので彩られている。たくさんの料理と、娘への感謝の気持ちを綴った数々の手紙は庄野潤三の文学そのもので、読んでいるこちらも温かで幸せな気持ちになることだろう。手紙は昭和 48 年に始まり、作家が亡くなった 2009 年に終わる。日々のよろこびを反芻するために綴った、家族の些細な記録は、庄野文学を読み解くヒントであり、同時に、毎日の生活を楽しむためのヒントになるはずだ。