ことばの記憶:vol.10 自信

 先日、信州・上田に移住5年目にして初めて登山に挑んだ。ようやくといっていいほど、ようやくといった感がある。というのも息子が3歳になりたての頃から信州・上田の市民の山といわれている「太郎山に登りたい!」とことあるごとにいっていたので、山に登るいいきっかけになると思い、今回登ることになった。そういう意味でも彼としても念願かなってのことだろう。この季節は日中でも夕暮れのような晩秋特有の太陽の光の姿を表すそんな美しい季節の森の中を闊歩できることを楽しみにいざ出発。

 入山口に到着すると市街地ではポカポカな陽気であっても、流石は標高差があるだけあって空気がピンと張り詰めて冷たさを感じる。もう少しだけ着込んでくれば良かったと後悔しながら山を登り始めると、期待している以上に、木々の合間から差し込む光が美しく、そして光が届かない針葉樹林帯のあたりは鮮やかな深緑に染まった空間が広がっていく。それらを見たりしていると足取りが少し緩やかになる。
 面白いことにフィジカル面では山頂を目指し歩みを進めているはずだが、メンタル面は今歩いている山道ではない感覚の道を歩いているような状態になってくるのだ。そう、肉体と精神が程よく分離したきっと何かが開かれた状態になっているように感じる。なるほど、これは山好きの人たちが山の虜になり、そして修行僧が山に籠る訳だと妙に納得しながら歩みを進める。

 妻と二人で、息子が抱っこと駄駄を捏ねたらいつでもそうしてあげられるようにとお互いに心の中で覚悟を決めていたものの、そちらの方は大きく期待を裏切ってくれて、蓋を開ければ最後まで一人で歩いてくれた。それがよほどの自信になったのだろう、後日行った保育園で先生方に太郎山に登ったこと、そしてそれを一人で歩けたことを自慢気に伝えていたことが印象的だった。

 自信というのはひょんなことから湧き上がってくるものだと感じる。いくら他人から自信を持てと言われても、そのきっかけとなるものは自分自身の歩みの中からでしか生まれてこない。そしてその自信というものは、自分自身による自己暗示的な部分も大いにあるので、現実が幻想に飲み込まれた状態なのだろう。そして時間が経てば、その幻想は現実や普通の状態になっていき、また次の幻想が湧き立つことを待つ。待つといっても登山の如く、自分自身で歩みを進めて、何かを行動するしかほかない。

 自信をつけた息子を横目に、自分は最近何で自信をつけたのかと自問自答する。

 それは何か自分からアクションしているかという問いかけでもある

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