ことばの記憶: vol.5 食卓の風景

 先日公開した面影 book&craftのポッドキャスト『面影飛行で橋本左研の橋本さんをゲストにお迎えした時。最後の問いかけとして橋本さんから逆質問をいただいた。その内容が「暮らしという言葉を聞いた時に何をイメージするのか」ということだった。

 いつもは人に何かを投げかけてその応答を編集していく仕事をしているので、よくこの手の質問は取材相手に対して投げかけているはずなのに、いざ立場が変わり自分が答える側に立ってみると、意外に難しい。というよりは考えてみたこともなかったな、ということで反射的に言葉は出てこず。しばらく答えに窮してしまったが、一瞬のうちに頭によぎったのが、食卓を囲む風景だった。

  収録が終わり、帰りの帰路の車内で妻から暮らしを連想するものとして、こうした自分以外の誰かがそこに一緒にいて囲む風景を挙げたことが、とても意外だったと告げられた。自分で考えてみても確かにもっと違った抽象的なことでも答えたらなば、らしくあれたのかな、なんて考えてみたものの、確かにどちらかといえば平凡な食卓を家族が囲んでいる状況こそが、自分の中での暮らしというイメージなのだ。家に到着するまでの車の中であらためて考えてみたけれど、それ以外には思い浮かばないかったのだ。

  考えてみれば、人生このかた一人暮らしをしている時以外に、家にいる時は個別に一人で食事をするということがほとんどないのだ。もちろん世間でいう思春期というものも自分には存在していたので一言も家族と口をきかないなんて時期もあったにはあったのだけれど、それでも家族とテーブルを囲み食事をしていた。今考えてみればそれこそが、我が家のルールだったのだろう。母から「ご飯だよー!」の声が聞こえても、なかなか食卓の席につかないものなら、烈火の如く怒られたものだ。母だけでなく、父もどんなに仕事が忙しくても自分たちが夕食を食べ終わるか終わらないかというタイミングまでには必ず帰ってきていた。そうした習慣が個人の美意識にも繋がってきているともいえる。

  北欧のライフスタイルを探求していた2010年代後半ごろの時期に、現地でいいなと感覚的に思う瞬間もそうした食卓の風景だった。それが街の片隅で見かけたものであっても、自分自身の体験であってもだ。というのも現地の友人たちと久々に会う時は、どこか洒落たレストランで食事をするということではなく、ほとんどが家族のホームパーティに混ぜてもらう形でもてなしてもらうことが多かった。素朴だけれどシンプルに調理された食材やカトラリーや食器のセットなど、それをみるだけで彼ら彼女らが普段からこうした食卓の時間を大事にしているのかどうかということの指標となり、自分の美意識と呼応し、その後の深い話ができるかどうかというある種の指標にもなっていたように思う。

 食を囲む風景こそ、暮らしの風景なのだろう。

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