庭とエスキース / 著者・奥山淳志 / みすず書房
生きるための素描
『生きる』ということは、どういうことなのでしょうか。
若い頃は、親から早く自立して生きていくことを望み、そこを目指していたけれど、いざそういう立場になって自分の家族を持つようになって実感しているのが、日々の誰かの優しさや手助け、そしてほんの些細な気遣いによって自分というものは“生かされている”のだということに気がつく場面が多くなってきたように思います。
自助や公助という言葉が多く叫ばれた近年。そういう意味では、自分たちの身の回りの出来事を振り返ってみれば、その間にある共助という言葉が相応しい経験だったのかもしれません。だからそういう“生かされている”という気持ちが湧いてきたのでしょう。それは人に対しても、そして自然に対してもなのです。
本書『庭とエスキース』は、本書の著者であり写真家の奥山淳志さんが北海道の丸太小屋で自給自足の生活を営み、糧を生み出す庭と共に暮らす弁造さんの姿を14年間にわたり撮影しつづけた軌跡と記憶の物語と40点の写文集です。
著者の奥山さんも本文で触れられているように20代の当時を振り返り、生きるということに実感が持てなかったと語っています。そしてその答えを求め、この問いを北海道で自給自足の庭を作っている弁造さんを撮影することで何かを感じ取りたいということが伺えます。
本書のタイトルについており、本書のメインの舞台でもある『庭』。英訳するとgardenですが、語源を遡るとguard(ガード、柵)+Eden(エデン、楽園)の二つの意味が合わさって出来上がった言葉だそう。本書を辿っていると弁造さんの庭がそんな本人にとっての場、つまり、自分という名の柵の中にある楽園ということが伺えます。そしてもう一つタイトルについている『エスキース』ですが、こちらは素描や下絵を指し示す言葉。本書を読み進めてみると弁造さんが絵を描いている描写などが出てくるので、それを表現してつけたのかと思いますが、先の庭の語源とエスキースを照らし合わせてみると、奥山さんが14年間もの間、弁造さんを取材して見えてきた『生きるための素描』がここには描かれているのだと感じられました。
本書には、生きるということの答えは書かれていませんが、生きるための素描は確かに見つけることができるはずです。
この一冊が、そんな手がかりの助けになれば。
「弁造さんの部屋に入ると空箱とか紙切れとか床の上を占めているよくわからないものを脇によけて、僕はいつもの場所に腰を下ろした。それは部屋にひとつだけある窓の前、部屋の中央にどんと居座っているイーゼルの脇のわずかな隙間といってよい場所だった。たった一部屋しかない丸太小屋は全体でわずか十畳ほどだろうか。その空間のなかに食事を作るための流しと食事スペース、冷蔵庫、トイレとお風呂、クローゼット、ベッド、薪ストーブと暮らしていくうえで必要なすべてが揃っていた。生きていくうえで必要のないものを挙げるとしたら、それはイーゼルをはじめとする絵を描く道具だろうか。でも、これは弁造さんにとっては、冷蔵庫や風呂などとは比べようもないほど大切なものだった。イーゼルは、窓からの光を一番受けやすい場所に立っていて、ベッドからもよく見えた。
弁造さんは、ベッドに腰掛けながら、あるいは横になりながら、室内でいる時間のほとんどをこのイーゼルを眺めながら過ごしているようだった。そして、イーゼルにはいつだって絵が掛けられていた。鉛筆でざらざらと描かれているスケッチブックが造作無く置かれているときもあったし、色が塗られたベニヤ板やキャンバスが重ねて置かれていることもあった。共通しているのは、それがいつも完成していないことだった。でも、だからなのだろうか。絵は逆に生々しく弁造さんの今という時間を伝えているような気もした。
僕は無意識のうちに、イーゼルに置かれている絵が何であるのかを最初に確認するようになった」(本文より)
奥山淳志
写真家。1972年大阪生まれ、奈良育ち。京都外国語大学卒業後、東京の出版社に勤務。1998年岩手県雫石町に移住し、写真家として活動を開始。以後、東北の風土や文化を撮影し、書籍や雑誌等で発表するほか、人間の生きることをテーマにした作品制作をおこなう。2006年「Country Songs ここで生きている」でフォトドキュメンタリー「NIPPON」2006選出、2015年「あたらしい糸に」で第40回伊奈信男賞、2018年写真集『弁造 Benzo』で日本写真協会賞 新人賞を受賞。主な著書に『手のひらの仕事』(岩手日報社、2004)、『とうほく旅街道』(河北新報出版センター、2012)、『動物たちの家』(みすず書房、2021)などがある。