山影の町から / 著者・笠間直穂子 / 河出書房新社
小さくささやかな物語
都内に用事があり、新幹線で帰ってくるたびに感じるのが空気のおいしさだ。季節を問わず、いや冬なら特に新幹線のドアが開き駅のホームに降り立った時の一呼吸目に感じるおいしさと言ったら何たるや、大袈裟だけれどそれだけで生きているのを実感するほどだろう。
生活圏内は標高にして500mから600mの間。他の信州のエリアからすれば、さほど標高は高かくないのかもしれないけれど、考えてみればその高さは、東京スカイツリーの最上エリア闊歩しているのと同じなので、それは空気や感じる感覚も異なることだろう。
移住を決断して周りに報告をした時や移住後すぐに都内の仕事を片付けつつ2年間ほど行ったり来たりしていたのだが、そこから同僚にかけられる言葉の端々に『田舎』を想起させるものを感じた。いやいや漫画日本昔ばなしに出てくるような山村をイメージされていませんか、そう何度も冗談のように返していたが、内心この人は本当に自分が住んでいる所謂『田舎』の信州をそう思っているのだなと呆れたものだった。都内にあるドラックストアやショッピングモール、カフェだって点在しているし、自分の生活行動範囲としては東京時代のものに畑がプラスされたくらいの気持ちなのだが。
しかし唯一、大きな違いは都市の中では埋もれてしまっている個々人の小さくでもささやかな物語が見えやすいというところがあるのかもしれない。もちろん都会の中にもそういったことを大切に思って生きている方たちもいるはずなのだが、数の原理の中や他の喧騒に気を取られ見えるはずのものも見えなくなってしまっている。
そこで息づく生活者たちの小さくささやかな物語は、大きな何かではなく日々のこころをじんわりと温めてくれるものだろう。
さて、本書『山影の町から』にはそんな日常がエッセイとしてまとめられている。
アスファルトの世界を離れ、埼玉・秩父へ移り住むことにした著者の笠間さん――庭と植物、自然と文学が絡み合う土地で、真摯に生きるための「ことば」を探す。練達の仏文学者による清冽なエッセイ集。
・窓から風に乗って流れ込んだ常山木の、爽やかで甘い濃厚な匂いに導かれて(「常山木」)。
・生命の表と裏を引き受ける誠実さの方へ(「巣箱の内外」)。
・経済活動からはこぼれ落ちる、豊かな交換の倫理(「ふきのとう」)。
・外来種という呼称がはらむ排外主義の芽と、植物がみせる「明日の風景」(「葛を探す」)。
・宮沢賢治が見上げた秩父の空(「野ばら、川岸、青空」)。
・鮮やかで深い青紫の花と、家の記憶について(「サルビア・ガラニチカ」)。
・切り捨てられた人間と動物がともにある世界へ(「車輪の下」)。
・都市優位の世界観を解きほぐす作家たち(「田園へ」)。
・見知らぬ女性からの言葉が届く場所で、わたしは届くはずのない文章を待っている(「消される声」)。
・空の無限、星の振動、微かに吹く風は、わたしたちに語りかける(「風の音」)。
……ほか珠玉のエッセイ、三十篇
<目次>
常山木
巣箱の内外
ふきのとう
虫と本能
葛を探す
山の向こう
モノクローム
野ばら、川岸、青空
金木犀
霧と海
ダムを見に
荒川遡行
斜めの藪
草の名
バタースコッチ
サルビア・ガラニチカ
車輪の下
雲百態
田園へ
土の循環〔ほか〕
笠間直穂子
1972年、宮崎県串間市生まれ。東京大学大学院総合文化研究科単位取得退学。国学院大学文学部教授。フランス語近現代文学研究、仏日文芸翻訳。訳書に『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞、インスクリプト)ほか