利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学 / 著者・近内悠太 / 晶文社
誰かを想う気持ち
都会から地方に移住をするとそのコミュニティに馴染めるのだろうかということが多くの方達の中での心配事になるかと思います。自分たちはというと幸いなことに家庭菜園をやっていたり、棚田の田んぼのお手伝いなどを通じて、そこに住む人たちと定期的に顔を合わせる機会があったので、その都度、「こんにちは、暑いですね。」とか「元気ですか?」などと言葉を交わし合うのですんなりと溶け込むことができたように思います。そして特に大事だった、というよりも幸いだったことが子どもが生まれたことにより、見ず知らずの他者から声をかけていただくことが本当に増えたことや保育園に入園できたことで毎朝他の親御さんたちや先生と挨拶を交わすことが習慣化されたことにより、その場その場において他者からそこに居ていいのだという存在認識をしてもらえている感じが格段に増えていきました。兎にも角にも、挨拶や言葉を交わすということが他者認知ないしは他者を思いやるということに繋がっていくのだなと思い起こされました。
こんなことを思うきっかけとなったのが、本書『利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学』のページを開いたことでした。本書は教育者であり哲学者の近内悠太さんが利他・ケアという言葉を端緒にその言葉の周辺を解くほぐしながら理解を深めていく一冊となっています。
「僕たちは、ケア抜きには生きていけなくなった種である」
多様性の時代となり、大切にしているものが一人ひとりズレる社会で、善意を空転させることもなく、人を傷つけることもなく、生きていくにはどうしたらいいのか?人と出会い直し、歩み直し、関係を結び直すための、利他とは何か、ケアの本質とは何かについての哲学的考察がまとまっています。
進化生物学、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」、スラヴォイ・ジジェクの哲学、宇沢弘文の社会的費用論、さらには遠藤周作、深沢七郎、サン=テグジュペリ、村上春樹などの文学作品を引き合いに考察するしていく書きおろしケア論です。
他者との関係性において少し空回りしたしまったりする時に参考にしたい一冊です。
でも一番大切なのは、まず挨拶から変えてみることなのかも知れませんね。
「大切なものはどこにあるのか? と問えば、その人の心の中あるいは記憶の中という、外部の人間からはアクセスできない「箱」の中に入っている、というのが僕らの常識的描像と言えるでしょう。/ですが、これは本当なのでしょうか?/むしろ、僕らが素朴に抱いている「心という描像」あるいは「心のイメージ」のほうが間違っているという可能性は?/この本では哲学者ウィトゲンシュタインが提示した議論、比喩、アナロジーを援用してその方向性を語っていきます。」(まえがきより)
<目次>
まえがき──独りよがりな善意の空回りという問題
第1章 多様性の時代におけるケアの必然性
第2章 利他とケア
第3章 不合理であるからこそ信じる
第4章 心は隠されている?
第5章 大切なものは「箱の中」には入っていない
第6章 言語ゲームと「だったことになる」という形式
第7章 利他とは、相手を変えようとするのではなく、自分が変わること
第8章 有機体と、傷という運命
終章 新しい劇の始まりを待つ、祈る
あとがき
近内悠太
1985年神奈川県生まれ。教育者。哲学研究者。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。教養と哲学を教育の現場から立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践している。『世界は贈与でできている』(NewsPicksパブリッシング刊)がデビュー著作となる。