ことばの記憶: vol.2 泡が踊る

言葉との出会いはふとした瞬間に突然現れる。

そこには再現性はなく、二度同じ言葉を聞くのとでも、きっとそのニュアンスは異なってくるだろう。それは人と人との出会いとも一緒で、一度出会ってしまったら、出会う前の時の状態や心情には戻れない。

 

「泡が踊っているよ。」

 

息子がお風呂の中で発したこの言葉もそうだ。

何気ない言葉の一つ一つがとても新鮮に感じられる2歳の息子とお風呂に入り、カラダを洗ってあげている時の一コマ。ボディソープを泡立てている時に図らずも出てきた泡。息子はフワフワとあたりに浮かんでいるシャボン玉というものの存在をなんとなく知りつつも、まだその実態やどうしてそれが出てきたのかということは理解に及んでいない。でも神秘的でしばらくすると割れてしまうその儚さを感じ取り、自分の頭の中で知っている『泡』という単語とそれがユラユラしている様子を『踊っている』と表現した結果『泡が踊っている』となんともポエティックな言い回しを繰り出したのだった。

その言葉の言い回しがとてもユニークだったので、「もう一度言ってみて」とリクエストするも、そんな僕の思惑に勘付いたのか、恥ずかしそうに息子は黙ってしまった。

やはり言葉との出会いは一瞬なのだ。

このように知っている単語を並べてその時の情景や自分のやりたいことを伝えるということは、子どもの頃だけでなく、まだその現地の言葉を知らない時によく行うことだと思う。こと海外に行った時などは現地の言葉を単語で組み合わせながら伝えることで意思疎通ができ、なんだ、自分はどこででも何だかんだやっていけるんじゃないかとポジティブな“勘違い”から妙な自信がついたりする。分からないということは実は最強のエネルギーになっているのかもしれない。

その一方で海外でのインタビュー中にrefine(洗練/改良する)とdefine(定義する)を言い間違いしたりと肝を冷やすような場面は多々あったし、最初に行き始めたころの自分の英語なんかを振り返る機会があったら、きっと意味が通じないヘンテコな言葉だったり、変に意味が通じたりしてしまうポエティックな表現をしていたのかもしれないと思うだけで先の息子のように恥ずかしさがこみあげてくる。

今は便利なもので溢れているし、よほど辺鄙なところに行かない限りWi-FiにアクセスしてGPSで自分の現在地ですらわかってしまう。知らない言葉を投げかけてくる旅人に出逢ったら、翻訳アプリに話しかけてもらえば、大体意味が通じてコミュニケーションをとることができてしまう。

こうした状況は一見すると、とても便利で科学技術の進歩と捉えることができるだろうが、その反面、自らがその端末を常時保持しているおかげで自分の生きている場所が特定されてしまったり、言葉というものをなんのフィルターも無しに出会い感じとる偶発性が阻害されてしまったりもする。

偶発性があるのだから、人生や生活にスパイスが加わって深みが増していくのであって、それを便利という口実で排除されてしまっては敵わない。

 

偶然できた泡が踊るように生きたいものだ。

 

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月に一度、面影 book&craftの店主はエッセイを、店長は日記をお届けすることにしました。私たちがショップを通して扱うものやことは多くのものが代替が効くものだと思っています。であるならば、もう少し自分たちらしさをお伝えして、そんな私たちが選ぶものや企むこととして、もう少し奥の意味合いを感じ取ってもらえればと思い文章で伝えていこうということになりました。
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