短い夏の移動

 梅雨が明け、いよいよ夏が到来した。鬱蒼とした雨空から一転、ジリジリと肌に照りつける太陽光が容赦無く降り注ぐ。それもそのはず、昨年まで生活拠点にしていた東京と比較すると標高も高くなったこともあり、肌感覚的に太陽の日差しが2倍以上強くなったようだ。

 こうも暑いと午後の時間帯はほぼ外出できず、移動はもっぱら自動車で家庭菜園の様子を見にいくのも早朝か、夕方ごろに狙いを定めて行くように心掛けている。幸いなことに、高地故、朝晩はとても涼しく風があれば扇風機すら必要ないくらいなのは、唯一の救いだろうか。

 家庭菜園をやっている畑までは車で15分ほどの中腹にあるのだが、この15分間ぐらいのドライブでも気分転換になるものだ。例えばスマホでSNSを開き時間を潰してみても気分転換というよりは、時間の浪費と感じてしまうのはどうしてだろうか。一つは、そこに移動性が伴ってないからなのかもしれない。そういった意味でも、自分の置かれている環境や見えている場面を大きく変えてみるということは、気分転換をするために必要な要素の一つなのだろう。

 こうも暑くなければ、自転車なんかは特に良い。自分でペダルを漕いだ分だけ、進むことができるという身体性、そして動いていることを風というかたちでも感じることのできる道具なのだ。

 

 

 夏の北欧を旅していると自転車大国であるデンマーク以外でも自転車移動をしている人たちを多く見かける。街の交通ルールや自動車税、さらには地形や気候なども日本と異なるので一概に比較できないのだが、短い夏という条件の元、その夏を実感、体感できる手段としては、自転車は最適な道具なのだろう。足早に移り変わる自然の表情の中を、移動スピードが人間の身体性を凌駕しない自転車を漕いで環境や場面を転換しているのだから、やっぱり北欧の夏の時期の自転車移動は最高なのだ。



 さて、身体的な移動は伴わないのだけれど、最近「新潮クレスト・ブックス」から出版されている海外文学作品を多く読むようになった。こういった世の中の状況だからということもあるのだけれど、今まで自分が手を取らなかった本を読んでみようという気分になっていることもある。

 とはいえ、何から読んでみるのが良いのかというところもあったので、手始めに「記憶に残っていること」というタイトルの短編集を手に取ってみた。収録されている文学作品は、どれも何気ない日常の一部を切り取ったような作品や起承転結が曖昧で、映画で例えるとジム・ジャームッシュ監督の「パターソン」を鑑賞した後の気分に近いかもしれない。色々な国の著者の短編集がまとまっており、普段は手にしないような中国文学やパキスタンの政治情勢に触れられている普段馴染みのない文化に文学を通して感じられるのは、身体的な移動は伴わないけれど、旅の時に感じる多様を受け入れるマインドの拡張が進んでいるようでいて、とても気分がよくなる。

 体とこころを移動させながら、短い信州の夏を楽しみたいと思う。

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