視覚と感情のクラデーション

 日本語は面白い、そして難しい。本来、誰かに伝達する言葉、その言葉のパーツとしての文字なのだが、日本語はそのパーツを分解してみと「平仮名」、「カタカナ」、「漢字」、「数字」といったように実に多用で、その組み合わせのどれが正しいということはあまりない。けれど例えばメールの文章でも「〜できる」と書くか「〜出来る」と書くかで印象はだいぶ変わるだろうし、「もの」と書くか「モノ」と書くのか、それとも「物」なのか、考え出したら日が暮れてしまいそうなのだが、その組み合わせや表現で、なんとなくその文章を書いている人柄なども伺えてくるものだ。

 

 

 最近、日本の現代詩作家、随筆家の荒川洋治の著書「霧中の読書」という本を読んでいる。初めて著者の本を手にしたのが数年前。それは「夜のある町で」というエッセイ集で、タイトルからは何か素敵なエッセイがまとめられているのだろうと想像していたのだが、ページを開くと、日本人の言葉に対する姿勢やその変化を文学の系譜を辿りながらまとめてられた内容で少し面を食らってしまった。読み進めてみると、はじめの期待は裏切られた訳ではあるけれど面白く、言葉によるチカラを辛辣な批評を通して感じ取ることのできた私自身、最初の体験だったかもしれない。今、手にしている「霧中の読書」もそこから続く、著者のエッセイ集なのだが、そこに収録されているエッセイの中に、著者が新聞社からの寄稿をお願いされ、原稿を書く際の注意点などを面白おかしく著述している部分がある。新聞には古くからの慣用句や諺などの例外はあるものの、どうやら漢数字を避けて記述するというルールがあるようで、例えば文章内で「二番目の作品」ということを書こうものなら「2番目の作品」といったように書き換えられてしまうそうだ。著者はそれを避けるために「その次に出てくる作品」といったように表現方法を工夫するとのことが書かれていた。

 物書きの端くれのような仕事をしている身の自分にとっては、前段で書いたように平仮名で表現するのか、それとも漢字なのかということを吟味して文字の選択、配列、順序を考えていて、それらを表現することで単語の意味以上のものを文字文章として伝えているように思う。話が戻ってしまうようだが、日本語は視覚的な感情も文字を通して知らずと伝えているのだろう。

 

 

 視覚というポイントで忘れがちなのが、私たちは生活を営んでいる中で、多くの色に囲まれているということだ。これはある種の思考実験のようなことだが、仮にこの世界がモノクロの世界だとしたら、だいぶ世の中は退屈なものになってしまうんじゃないかと思う。

 実はモノクロというわけではないが、その一歩手前のセピアの世界は、中学生の時に目を怪我し他時に一日だけ体験したことがある。怪我した時の痛みよりもさっきまで普通に色があった世界が一瞬にしてセピアになってしまったことのショックと、このままこの状態になってしまうんじゃないか、という不安に襲われてしまい、その心のダメージの方が大きかったことを記憶している。幸いなことに、セピアに見えてしまっていたのは網膜内の出血が原因で、視覚がその血のフィルター越しに世界を認識してしまっていたからだったのだ。その原因や炎症を取り除くために処方された点眼薬をつけることで、無事に元の色の世界に戻ることができたのだった。

 

 

 もう一つ視覚ということで小さな頃から興味があることが「人の目にはどう写っているのか(捉えているのか)」ということだ。
 

 

 仮に同じもの、例えば同じ青色の何かを見たとしよう。この時、自分は、「これは青だ!」と思っていても、他の人がどのような青に感じているのかは推し量れない。自分よりも濃く見えているかもしれないし、その反対で薄く見えているかもしれない。このことは、色を視覚で感じた時に抱く感情についても同じことが言えるだろう。一方はその色を「爽やか」と捉えているかもしれないし、他方は「悲しい」という感情かもしれない。こういった視覚や感情の差分、つまりグラデーションがあるからこそ、世の中は様々な色に溢れていて、魅力的なのだろう。