鳶とカラス

前回のコラムでも登場した鳶。あれから気温も徐々に上がってきており、信州・上田にも春の訪れを告げるかのように、何羽も上空を滑空している様をよく見かける。羽を羽ばたかせることなく、ただ大きく広げて空を舞うそんな光景を見ているとこちらの気分が良くなる。そんな滑空を眺めていると、どこからともなく、忙しなく羽を羽ばたかせる黒い影が近づいてくる。カラスだ。

体が大きい鳶なのだが、性格は少し獰猛なところもあるらしく、カラスの縄張りに入るや否や神経質な彼らに必要以上に追っかけ回されている。明らかにカラスの縄張りの外に出たのにも関わらず、遠くの山まで鳶はカラスに追っかけ回されていく始末だ。そうして鳶がどこか遠くに離れたことが分かるとカラスは安心して自身の縄張りの電線とまっている。けれどしばらくすると懲りずにまた鳶が滑空しながら近づいてくる。毎日これの繰り返しなのだ。

ここでふと、カラスが縄張りに入ってきた鳶を追いやっている、だったり、鳶がカラスにいじめられて(追い回されて)しまっていると見るべきなのかという疑問が湧いてくる。いやそれは当事者たち(鳥たち)としては、ただただ戯れあっているに過ぎないのかもしれないとすら思えてくる。

 

 

最近になって、世の中が混沌としてきているからなのか、社会というものがどのように成り立ってきたのかということに目が行くようになってきた。そんなこともあり、サクッとウィキペディアで検索をかけてみると、こんな感じで社会という説明が出てくる。

 

“社会(しゃかい、英: Society)は、ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。また、仲間意識をもって、みずからを他と区別する人々の集まり。社会の範囲は非常に幅広く、単一の組織や結社などの部分社会から国民を包括する全体社会まで様々である。社会の複雑で多様な行為や構造を研究する社会科学では人口、政治、経済、軍事、文化、技術、思想などの観点から社会を観察する。”

 

これをみると、社会という概念自体が人の視点をベースに成り立っていることがわかる。ただわかりやすいように人が区別しているだけなのだ。一方、動物や植物などで考えてみると、その境界線は曖昧でゆるく繋がり合いながら環境としての調和を保っている。明確な区別はなく、それはグラデーションのように滑らかな差異の連続性から形成されているのだ。いつか読んだモノの本には、ある一種の植物が繁栄してしまうと一見、その繁栄したものの勝利のようにみえるけれど、長い目でみると生態系が狂ってしまい、最後にはその繁栄した植物も荒廃してしまうそうだし、植物に至っては人が観察しきれない地下部の根が互いに連絡を取り合い、それぞれの環境情報を送り合っているそうだ。

人間社会を考えてみると、「十人十色」という四字熟語があるように、一面でしか捉えることができない作られた共通項で果たして人間を括る、もしくは区別することができるのだろうか。

私たち人間は、今改めて「自然」という成り立ちから考え直し、「自然」の視点を身につけていく必要性が増してきているのではないだろうか。