内なる声に耳を澄ませて
最近色々なメディアや手にする書籍などの端々に「相対化」というキーワードが自分の目や耳に飛び込んでくることが多くなってきた。潜在的に意識しているからなのだろうか。
「相対化」という言葉を辞書で調べてみると、
一面的な視点やものの見方を、それが唯一絶対ではないという風に見なしたり、提示したりすること。
と出てくる。つまり色々な事柄と比較しながら評価や判断をしてくことのようだ。確かに何か好きなものを決める時にしても、無意識的に比較しながら判断していることが多いように思う。
例えばコーヒー。自分は喫茶店のミルクを入れないと胃にズシんとくるような深煎りのコーヒーよりも、今流行りのスペシャルティーコーヒーのような浅煎りの方が好みなのだが、その浅煎りの中でも浅過ぎると胃がムカムカしてきてしまい、飲んだ後のダメージが結構あったりする。以前ノルウェーのオスロで飲んだケニアのハンドドリップコーヒーを飲んで喉がヒリヒリするくらい酸っぱいコーヒーで大変な目にあったこともある。こういった味覚の好みも色々とチャレンジして苦い経験や酸っぱ過ぎる経験を経て、自分のちょうどいいところに落ち着くものだ。
よく自分の視点や見識を広げていくための要素として「本」「人」「旅」の3つの要素があるということを色々なところで話してきたが、これは自分の内なる声が出やすい状況を作るためにうってつけの手段で、そのプロセスを経ることで、自分が相対化されていくのだろう。
「本」は著者や編集者の考えるものの見方が収録されていて、それに共感するもしないにしても様々な「本」を読むことによって自分の考え方のようなもの、つまり視点が定まってくる。「人」については、良くも悪くも「人」は「人」との関係性の中で生まれてくるもので、喜びも悲しみも「人」が関与しないところでは発生しないので、自分という感情の形成に寄与しているのだろう。そして「旅」については、その言葉の中に未知なるものの要素が存分に含まれているのではないだろうか。未知なるものの道中は、新しいことや今までのやり方で通用しない状態に遭遇する頻度が高まり、大なり小なり自分自身が不便になったり、様々なトラブルなどで困ることが発生することだろう。そんな時その事象に対し、自分がどう感じたかということを通して自分というものの理解が進むのではないだろうか。
まず誰かに合わせたりということをする前に、自分自身を相対化してみてじっくりと内なる声を観察していきたい。そんな時の相棒として「本」や「人」、そして「旅」が側にいてくれるのならそれはきっと素晴らしい人生になるのではないだろうか。