そこには何があるのだろうか

 年始から何か調子がイマイチ上がってこない。何か特別な壁が立ちはだかっている訳ではなく、むしろ様々な事態は普段よりも平穏無事といったところなのだ。そんなこともあり、何をする訳でもなく、映画をただひたすら観た。世の中には映画好きやそれらを生業にしている方も多くいるので、その方たちに比べればその数は多くはないのだけれど。

 ジョージクルーニーが監督を務めた「THE TENDER BAR」を皮切りに、スウェーデンの児童文学作家のA・リンドグレーンの半生を描いた伝記映画「リンドグレーン」、心理学者ジークムント・フロイトと17歳の青年との物語を描いた「17歳のウィーン フロイト教授人生のレッスン」、そして地元のミニシアター上田映劇でエッセイストの松浦弥太郎さんの映画「場所はいつも旅先だった」といった具合だ。(月末に公開するウェス・アンダーソンの新作「フレンチ・ディスパッチ」も早く観たいと思っている。)

 どの作品も世界観が丁寧に表現されていて映像としても楽しむことができたのだが、それぞれのストーリー展開は異なるものの、特に先の三作品に共通することとして主人公である青年期の感情の動きが美しくもリアルに表現されていたからだろうか、グッとストーリーの中に引き込まれてしまっていた。複雑な家庭環境と学歴、望まぬ妊娠と親と子の関係、恋心とナチスの脅威など、自分の置かれた状況と社会との関係に戸惑い悩んでいる姿は、同じストーリーを通っていないにも関わらず、構造としてすごく共感するものがあった。そして、そんな悩める主人公の背中を押すのが、バーテンダーの叔父さんだったり、里親になってくれた女性だったり、フロイト教授だったりということも面白い。つまり心の支えとなったのが自分たちにとって身近な親や友達ではなく、少し歳の離れた(フロイト教授はかなりだが)人生の経験者たちが主人公にとっての良いメンターとなり、可能性や選択肢を広げてあげる存在になっているのだった。そういえば松浦弥太郎さんも18歳の時に一人渡米して旅をしはじめたそうだから、やはりこのくらいの歳頃は色々と悩み多き頃合いなのだろう。

 そしてどの主人公も、先のメンターからのアドバイスを聞きながらも、小難しくあと先を考えずに自分の今の感情に従って進んでいく様が描かれていて、その若さのパワーも同時に感じ取ることもできた。どうしても歳を重ねていくと新しいような機会があっても今までの自分の経験を準えてそれらを捉えてしまい新鮮さを感じることができなかったりと、新たな目で物事を判断し、行動していくということが苦手になってしまう。というよりもそうした自分を客観視することすらも難しくなってきてしまうのではないだろうか。そういったことの積み重ねが年始から何か調子が上がってこない自分の状況と重なり、より一層向き合わねば、という気持ちにさせるのであった。

 松浦弥太郎さんの映画「場所はいつも旅先だった」の中で、「そこには何があるのだろうか。」という言葉が心に残っている。この視点で物事を見てみることが今の自分には少し足りていなかったように思う。以前は、旅をしながらクリエイターたちの頭の中(つまり、「そこ」)に何があるのかということに興味をいただき、その声無き言葉を言語化していくことを定期的に旅をしながら行なっていたのだった。それが自分自身の活力にもなり、人生の中でも自分自身で見つけた新たな発見として蓄積されていっている感覚はあったのだ。

 さて、今年はもう一度原点に立ち返って様々な人の声をじっくり、そしてしっかりと聞き、言葉にしていくという仕事をしていきたいと思っている。そこには何があるのだろうか。